今期放送中の『大奥』(フジテレビ系)について、同シリーズの熱心なファンである歴史エッセイスト・堀江宏樹氏が史実的に解説します。Snow Man・宮舘涼太演じる松平定信と安田顕演じる田沼意次、実際の人物像とは?
目次
・絶世の美男子だった田沼意次
・ドラマとは異なる、史実の家治との関係は?
・ドラマにおける松平定信は、史実における田沼意次?
・田沼意次、家治の死から2日後に失脚のなぜ
絶世の美男子だった田沼意次
今期のフジ版『大奥』のヤバキャラのトップは、「舘様」熱演の「サイコパス定信(松平定信)」であることは間違いないのですが、安田顕さん演じる田沼意次(たぬま・おきつぐ)も名優の無駄遣い感において凄まじいものがあり、なんとかならないものだろうか……とずっと思っていました。
このコラムの連載を始めた時から、いつ田沼意次にツッコミをいれるべきだろうか、もしかしたら、多少まともになるかもしれないという淡い期待を抱いていたのですが、それも虚しいことだと思い定め、今、この原稿を書いています。
今期のフジテレビ版『大奥』は、人物の名前くらいしか史実に配慮した設定がなく、ドラマの田沼意次も、そういう実在の人物がいたという程度の史実性しかありません。
史実の田沼意次は享保4年(1719年)生まれ。ドラマでは時系列でさえ史実性ゼロなので、なんともいえませんが、史実の竹千代(のちの家基)、貞次郎が誕生した宝暦12年(1762年)の段階で、数え年44歳でした。しかし、いまだに絶世の美男子として、息子・意知(おきとも)ともども、奥女中たちの胸を怪しくときめかせる存在だったようです。
ドラマとは異なる、史実の家治との関係は?
田沼家はもともと紀州藩士でしたが、「足軽」というもっとも家格が低い武士のはしくれにすぎない家でした。しかし、紀州徳川家という高い家柄に生まれたものの、母親が身分の低い女性で、しかも四男だったことから、不遇をかこっていた時期のある徳川吉宗が、その時の自分に仕えてくれていた意次の父・意行(おきゆき)に才能を見出したのが、幸運の扉を開いたのです。意行の子である、意次も吉宗の「スペオキ(スペシャルなお気に入り)」でした。
徳川吉宗は「名君」として有名なのですが、彼が君臨した18世紀中盤は天候が不安定で、飢饉・凶作の年が多く、その治世にはかなりの数の農民一揆も勃発しているのです。いくら質素倹約に努めても、農業重視という旧来の方針だけでは経済が立ち行かないのは必然でしたから、田沼意次は新田開発を急ぎつつも、さまざまな産業にも浅く、広く課税を試み、幕府が収入を得られる道を模索したのでした。
結果的に幕府の財政は潤ってきたものの、武士や庶民たちからの反発は大きく、また「田沼時代」には、少しでもいいポストを手に入れるためには権力者に配る大金の賄賂が必要となり、この金権政治の風潮に不平不満は増大していきました。
田沼にだけ賄賂を渡せばなんとかなるわけではなく、上司に対する付け届け――それこそ、箱の中から饅頭を取ってみると金貨が敷いてあるとか、そういう時代劇で見るようなことでもしないと仕事にさえ就けない世の中になってしまったのですね。
ドラマの田沼は、家治が将軍の実の息子ではないことをバラすといって扇をパタパタしながら脅迫し、意のままに家治を操縦している印象ですが、史実の家治からはとても深く信頼されていたようですよ。
しかし、これも田沼ほど家治から寵愛されなかった者の嫉妬なのでしょうか、本来ならば将軍を支えるべき立場の田沼が、「キングメイカー」ならぬ「将軍メイカー」として暗躍し、幕政を牛耳っていた黒幕だったとする逸話の類はあまりに多いのですね。
ドラマにおける松平定信は、史実における田沼意次?
ドラマでは松平定信が毒を盛ったりして、家治の周囲――とりわけ五十宮倫子を脅かしていますが、史実でそういうことをしていたとささやかれているのは田沼意次です。
数え年・18歳で、それまで元気だったのに、突然病んで亡くなった家治の嫡男・家基も、実は田沼による毒殺であったとか、家治本人も田沼の息がかかった医師から毒薬を飲まされて死んだという妙にリアルな話まであるのです。
天明6年(1786年)3月頃から、家治の健康状態は大きくゆらぎました。彼の脚はひどくむくみ、奥医師たちはそれを「脚気」と診断しました。脚気とは、白米ばかり食べるような栄養が偏った食生活が災いし、浮腫などを生じる病気です。現代日本では食生活の改善とともに、ほとんど姿を消しましたが、当時の日本では非常に深刻な流行を見せていたのです。
しかし、現代の内科にかかったのなら、家治は脚気などではなく、心臓病、もしくは腎臓病だという診断を受けていたかもしれません。少なくとも、家治に奥医師が処方した脚気薬の効果はありませんでした。
同年8月15日、家治はこれまで一度も休んだことがなかった大奥の総触(そうぶれ、ドラマにも出てくる朝礼のようなアレ)を欠席しました。夏風邪が理由とのことでしたが、その後も立ち上がれない状態が続いたのです。
すると田沼は、若林敬順と日向陶庵という2人の町医者を江戸城に連れてきて、奥医師に任命したのでした。しかも任命から3日後、日向陶庵だけが江戸城から出ていっているのです。理由はわかりません。この2人が後の世に名を残すような伝説的名医であった形跡はないため、記録が残っていないからですが、口止めもされていたでしょうね。
しかし、なぜ彼らを田沼が連れてきたのか……。「わが意のままに、家治を暗殺しようとしていたのではないか」と考えうるエピソードが真偽を問わず、多いのは確かです。
家治は田沼の判断で、若林敬順が調合する薬だけ飲ませられていたのですが、家治の体調は悪化する一方で、ついに8月25日、3度嘔吐した後に「これは毒薬だ、医者を代えてくれ」と訴えていたといいます。それなのに医師は交代させられず、この日のうちに家治はぽっくり絶命してしまったのでした。
田沼意次、家治の死から2日後に失脚のなぜ
さらに奇怪なのは、家治の命日が「8月25日」というのは複数存在する家治の命日の説の一つにすぎないのですね。また、家治最期の様子を『天明巷記』という書物がとくにリアルに描写しているのですが、家治死後にも「事件」はおきていました。
「廿六日(=26日)の昼四時」――つまり、家治が亡くなった翌日の午後、彼の死体がとつぜんガクガクと震えだし、凄まじい量の吐血を始めて止まらなくなりました。原文を引用すると「御死躰、頻(しきり)にふるへ出させ玉ひて、御吐血夥敷(おびただしい)て不止(とまらず)」と、ホラー映画のようなことになったのですね。
しかし、田沼が本当に家治を暗殺したわけではなさそうです。家治の死から2日後の8月27日に田沼は失脚し、またその後、田沼は父の代から築いてきた栄誉栄典の大半を失いました。かろうじて、大名家としての田沼家の存続は許されましたが、それは彼の孫によって継承され、田沼意次はその後、死ぬまで政治の表舞台からは遠ざけられたのでした。
田沼は11代将軍・家斉とその父・一橋治済(ひとつばし・はるただ)から家治の暗殺を任されたものの、ここぞというときに裏切られたともされますが、どうでしょう。田沼は自分に高いステイタスと、大きな権限を保証してくれている将軍・家治の命をなんとか守りたいと願う中で判断が狂い、名医と信じこんだ民間のヤブ医者をあてがったせいで、結果的に家治の命も自分のステイタスも守れなくなっただけなのかもしれません。
史実の家治と田沼は、運命共同体のような存在だったようです。