“「ヨロヨロ」と生き、「ドタリ」と倒れ、誰かの世話になって生き続ける”
――『百まで生きる覚悟』春日キスヨ(光文社)
そんな「ヨロヨロ・ドタリ」期を迎えた老親と、家族はどう向き合っていくのか考えるシリーズ。
目次
・若年性認知症の妻、命を長らえた母
・奇跡的なことを信じるようになったきっかけ
・たちまち生命に危険が及ぶ日常の中で
若年性認知症の妻、命を長らえた母
若年性認知症になった妻、美代子さん(仮名・67)を介護する北野寛さん(仮名・68)は、妻から最後にかけられた「お父さん、ありがとうな」という言葉を神さまからのプレゼントのように感じている。さらに、母の宮子さん(仮名・89)も奇跡的なタイミングで命を長らえた。妻も、母も、自分も生かされていると思う。その根底には、数十年前の不思議なできごとがある。
息子が2歳くらいのころに微熱が続き、北野さんや父にも寄り付かなくなっていた。
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奇跡的なことを信じるようになったきっかけ
息子のことをよく知るお坊さんに呼ばれていくと、庭に不浄なものをつくっていないかと指摘された。思い当たることはあった。
「私はその場所に、犬小屋と焼却炉をつくっていました。父は、敷地内にある鬼門に植わっていたイチジクを別の場所に移植していました。どの家でも敷地にはいろいろな神さまがおられます。ところが、私も父もお許しなく神さまがおられるところを弄ったのです。お坊さまが言われるには、『放っておくと身内が次々と不幸に陥る七人殺しの神様に障っている』と
それにしても、北野さんや父親のしたことがなぜ息子に災いをもたらしているのか? 北野さんは疑問に思った。
「するとお坊さまは、私と父にとって一番大切な子どもや孫を介して知らされているのだとおっしゃるのです。そして放っておくと、間違いなく次々と災難が起こると言われました」
「助けてもらう方法はありますか?」
と尋ねた北野さんに、お坊さんは「護摩を焚き、鎮めることにより助かる」と言ったという。
北野さんと父親は、藁にもすがる思いで護摩焚き供養をし、お浄めのお札をいただき持ち帰った。そして家へ入る前に浄める場所にお札を立てた。
「それから玄関に入ると、息子が『お父ちゃん』と言って走って来て抱きついたのです。御祈祷してもらうために家を出る前までは、私にも父にもまったく寄り付かなかったのに」
それから息子はすっかり元気になった。ご飯も良く食べ、熱も下がったという。
「そのお坊さまは、自分たちのような人間はたくさんいるわけではないけれど、現世と目に見えない世界とを繋ぐ役目を持っていると言われました」
その時以来、奇跡的なことを信じるようになったと北野さんは明かしてくれた。
「私の家では代々八百万の神さまへの信仰があります。家の中でお祀りする神さまは八神あり、畑がある場所にも淡島さまを祀っています。家の周りにも、干支に関わる神さまをはじめ、たくさんおられるそうです。迷信と言われるかもしれませんが、私には迷信と思えないのです。毎月の初日は私か母親が家の周りの要所にお清め塩をし、軒先や敷地内を弄う時は必ず塩で清め許しを得ることにしています」
北野さんの住む町は、関西地方の山あいにある。そんなことも、北野さん家族の神さまへの意識を醸成しているのかもしれないが、おそらく少し前までは日本のあちこちにそんな話はあったはずだ。
そのときのお坊さんからは、「神さまからの知らせを感じることができれば、最悪の事態から救われ、感じることができなければ最悪の事態になってしまう」と言われたという。
「もともと神さまの領域に私たちが生かされて、ご用をさせていただいてるということなのだと思っています。神々の存在の中では、現在の私たちの存在なんてほんの一瞬なんでしょう。私は別に強い信仰心があるわけではありませんが、神さまも仏さまも信じています。お陰でこうして今日も無事に過ごすことができている、そう思っています」
たちまち生命に危険が及ぶ日常の中で
北野さんの日課は、ぶどう農園での農作業だ。美代子さんが病気にならなければ、二人で農園を営んでいたはずだった。美代子さんと一緒に作業できないのは悲しいことだが、それでも黙々と農作業に没頭していれば、心に穴の開いたような寂しさはまぎれる。
ただ山中にある農園は、北野さんの自宅から数キロ離れたところにあり、携帯の電波も届かない。人とめったに出会うこともない場所だから、何かが起こるとたちまち生命に危険が及ぶ。
「昨年の夏は私の住む町も猛暑に見舞われました。農園近くには、高齢の一人暮らしの方が何人かいらっしゃいます。その一人が熱中症で倒れられたのか、私がその第一発見者となりました。119番に通報し、救急隊員の指導のもと心臓マッサージをしたのですが、お気の毒なことに病院搬送され死亡が確認されました」
この3年の間に、転倒や怪我、熱中症など3件も遭遇し、対処したという。
「数カ月前には、一人暮らしされていた方が人目に付かないところで草刈り作業中に転落され、翌日発見されましたがすでに亡くなられていました」
そういう北野さんも70歳近い。決して人ごととは思えないという。一人での農作業に、不安がないわけではない。
「人が減り、高齢者が増えるばかりで、地域内の見守りは状況が変わりつつあります。倒れた人を私が見つけることもあれば、逆に私が倒れてて見つけられることもあるのかもしれません。でも農園のある地域は私が一番若いので、もし私に何かあっても誰かに見つけてもらうことは無理ではないかと思います」
だから「今日も無事過ごすことができた」というのは、実感のこもった感謝の気持ちなのだろう。
生と死は常にそこにある。目に見えないものも、すぐそばにいるのかもしれない。