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『虎に翼』6つの画期的要素とは? 「極上のリーガルエンターテインメント」が意表を突いたワケ

テレビ・エンタメウォッチャー界のはみ出し者、佃野デボラが「下から目線」であらゆる「人」「もの」「こと」をホメゴロシます。

目次

『虎に翼』6つの画期的要素
①「朝ドラの王道」を行っているのに気づかせない、ある“大発明”
②あの「大御所脚本家」との共通点と、凌駕しようとする勢いが画期的
③演劇的要素&タイムトラベル感が画期的
④「ピーター・パン・シンドローム」を根調とした作劇が画期的
⑤「ふんわりイマジネーション」で書く脚本が画期的
⑥脚本家独自の言語感覚が画期的

『虎に翼』6つの画期的要素

 『虎に翼』(NHK総合)が終盤に突入しようとしている。「連続テレビ小説」110作目となる本作は、女性初の弁護士のひとりであり、女性初の判事、家庭裁判所長として活躍した三淵嘉子さんをモデルに、主人公・佐田(旧姓・猪爪)寅子(伊藤沙莉)の法曹としての人生を描く。本作が掲げる「日本国憲法のもと、全ての人に保証されている『人権』『平等』をいま一度考え直してみよう」という主題は実に素晴らしい。

 今年4月の放送開始直後から「寅子はまるで、100年たっても変わらない今を生きる私!」「今までにない朝ドラ!」といった絶賛の声が上がっている。筆者も、このような朝ドラ視聴体験は初めてかもしれない。では『虎に翼』はどこが他の朝ドラと違うのか。本稿では「6つの画期的要素」を分析してみたい。

①「朝ドラの王道」を行っているのに気づかせない、ある“大発明”

 各所で「画期的朝ドラ」と絶賛される本作だが、脚本家の吉田恵里香氏は大の「朝ドラ好き」だそうで、実は王道の「朝ドラあるある」の要素もきちんと入れている。というかむしろ、ベースは非常に“オーソドックスな朝ドラ”でありながら、そこに仕掛けた「装置」が画期的なのだ。

 まず、主人公の人物造形。寅子はすぐブチギレて大声を出したり、汚い言葉で他者を罵ったり、何かと暴力的な行動に走り、他者の領域にズカズカ踏み込んで支配しようとし、人一倍権力志向が強く、「名誉紳士」的で、かなり「アクの強い」キャラ付けがなされている。

 しかし、その基盤にあるのは「猪突猛進でおせっかい」という、王道の「朝ドラヒロイン像」だ。朝ドラファンにはなじみのあるこの「あるある」をしっかりと踏襲しているので、寅子の一見奇異に見える言動も全て「愛あるおせっかいゆえ」で済まされ……もとい、そこに集約される。

 また作劇面での、整合性やクオリティへのセルフチェックの“寛大さ”は『ちむどんどん』(2022年前期)に近いものがある。主人公の有能さや才覚をほとんど見せないまま周囲から盲目的に「すごい!」「さすが!」と崇められる世界観や、努力や葛藤などの過程を見せずに「仕事の成功」という結果だけをもたらすあたりは『とと姉ちゃん』(2016年前期)、『なつぞら』(2019年前期)、『エール』(2020年前期)などを彷彿とさせる。

 長年の朝ドラファンに向けて、こうした“定番”を仕込んでありつつも、驚かされるのは、このドラマの作り手が発明した「意識高いパウダー」だ。主人公が不遜すぎても、どんなに作劇が荒削りであっても、掲げているテーマが“尊い”、すなわち「意識高いパウダー」がふりかけてあるので、本作はかなりいろんなことが大目に見られている印象がある。このシステムの構築こそが画期的な大発明と言えよう。

②あの「大御所脚本家」との共通点と、凌駕しようとする勢いが画期的

 ところで、本作の脚本をつとめる吉田恵里香氏は、各所で「尊敬する脚本家」として野木亜紀子氏や渡辺あや氏の名前を挙げている。しかし、ロジカルな作劇で社会問題に鋭く斬り込む野木氏や、人間の深淵を見通したかのように玄奥なドラマツルギーで知られる渡辺氏と、吉田氏とでは、作劇論において真逆と言うよりほかない。どちらかと言えば吉田氏は、野木氏でも渡辺氏でもなく、かの「恋愛の神様」北川悦吏子御大の流派に属するのではないだろうか。

 北川御大の執筆による朝ドラ『半分、青い。』(2018年前期)と、吉田氏による『虎に翼』の共通性といえば、

⚫︎ドラマ/SNS/副読本の画期的なメディアミックス
⚫︎脚本家が登場人物を「依代」にする作劇
⚫︎人物に応じた「扱いの重軽」の妙
⚫︎「敵認定」した者は徹底的に蔑む
⚫︎「やられたら倍返し」の精神
⚫︎あらゆる他者へのリスペクトの“軽やかさ”
⚫︎「ロジックよりもフィーリング」の作劇
⚫︎「ポエム」と「暴力的ワード」が混在
⚫︎独自のワードセンスと「語弊? 知るかよ」精神
⚫︎いつまでも“子ども心”を忘れない
⚫︎言葉の誤用や不適切な表現がないかをチェックする「NHKの校正・校閲機能」を特例的に麻痺させる脚本の“力”

 ……と、主立った事項だけでも枚挙にいとまがない。かたやトレンディドラマの“老舗”脚本家、かたや「意識高い」題材を扱う新進気鋭の脚本家。取り扱う題材はそれぞれ異なれど、作劇の手法において非常に共通点が多いというのが興味深い。

 中でも特筆すべきはやはり「ドラマ/SNS/副読本の画期的なメディアミックス」だろう。まるで、先駆者・北川悦吏子御大の影法師をなぞるように、吉田恵里香氏も同じような行動をとっている。

 BlueskyとXで毎週「この部分の台詞がカットされた」という投稿と、それを網羅するシナリオ集の熱心な宣伝をセットで行う。批判的な視聴者に向けてやんわりと「嫌なら見るな」とお告げになる。解釈を間違えた「愚かな視聴者」に向けて、ご親切に「正解」を発表してくださるところまで北川御大と同じだ。

 しかし驚くべきは、吉田氏が、キャリアも年齢もかなり上回る北川御大に輪をかけて、“高姿勢”であるということだ。北川御大は、ドラマの描写不足を訴える視聴者に対して《やさしく脳内補完を、お願いします》と、ひとまずは「お願い口調」だった。対して吉田氏は、高いところから視聴者を「お裁き」になるのだから、あっぱれだ。

 吉田氏は自身のSNSへの投稿の転載を固く禁じておられるので、文章の引用はできないが、BlueskyとXでの発言を要約すれば、『虎に翼』について吉田氏が望む解釈をしなかった視聴者は、想像力や読解力に欠け、ひいては差別主義者ということらしい。たいした剛気である。

③演劇的要素&タイムトラベル感が画期的

 吉田氏は、3人以上の会話を書くのがお得意ではないようで、多数のキャストが一堂に会するシーンでは「1人もしくは2人と、その他大勢」になりがちである。おそらく話者以外の人物について、普段からの人物造形の掘り下げも含め、台本に何も書かれていないのだろう、「その他大勢」は手持ち無沙汰に静止して過ごすしかない。

 中でも傑作だったのが、星航一(岡田将生)が「お気に入りの店」として初めて寅子を喫茶ライトハウスに連れて行ったシーン。驚異的なご都合……あ、いや、“驚くべき偶然”で、寅子は桜川涼子(桜井ユキ)と玉(羽瀬川なぎ)に再会し、3人は喜び合う。通常のドラマならそれを目にした航一が驚いて「なるほど、知り合いだったんですね」とかなんとか言うところだ。ところが、3人がキャッキャやってる間、航一がスイッチをオフしたように完全に「静止画」になっているのに笑ってしまった。

 こうした、「現在スポットが当たっている人物」以外への照明が暗転するような、まるで演劇のごとき描写が新しい。そしてこれは、ドラマ全体にも言えることで、作者の「強い関心事」以外のことは、とことんアバウトに描かれるのが本作の大きな特徴だ。

 また後に、ライトハウスで航一が「総力戦研究所」に携わったことで抱えていた自責の念を吐露するシーンでは、岡田将生の口から発せられる、スタッフが用意した資料をそのままコピペしたかのような、「生きた人間の言葉として練られていない」長台詞が見事だった。その間、要所要所で寅子がまるで『まんがはじめて物語』(TBS系)のモグタンのように「そうりょくせんけんきゅうじょ?」「机上演習?」とオウム返しをするのも、何とも可笑しみにあふれていた。

 『まんがはじめて物語』は昭和50年代に放送されていた子供向け学習番組。モグタンとお姉さんが色んな“もの”、“こと”の「はじめて」を訪ねに行くタイムトラベルものなのだが、なるほど、『虎に翼』は脚本家と登場人物と番組のファンが「女性弁護士のはじめて」を訪ねに行くタイムトラベルもの(※随所に歴史改竄……もとい、“アレンジ”あり)の朝ドラなのか、と合点がいった。

 本作は、昭和6(1931)年から物語がはじまり、第19週放送時点で昭和28(1953)年。しかし出てくる人物の全てが、平成・令和の価値観、言葉遣い、思考、行動原理で動く。そんなところも「タイムトラベル感」が強い。

 「当時の人たちの『思い』を深く想像し、掘り下げ、それを光源にして現代の問題を照射する」というのが「時代もの」の映像作品の真髄だと思うのだが、『虎に翼』の作り手は「過去の人の思い? 知るかよ」というマインドを貫徹している。

 その精神からなる、「昭和感」をことごとく排除した作劇に違和感を唱える視聴者を、吉田氏はお諌めになる。転載が禁じられているので、文章の引用はできないが、BlueskyとXでの発言を要約すれば、「時代描写に文句があるなら時代劇だけ見とけよ」ということらしい。こうした脚本家の強固な姿勢も含めて、本作はまことに奇警である。

④「ピーター・パン・シンドローム」を根調とした作劇が画期的

 モデルの三淵嘉子さんと設定が同じであれば、第19週放送時点で、寅子は39歳になる年。大正生まれの四十路前にしてはずいぶんと子どもっぽい。というか、ドラマが始まってからほぼ成長していないようにすら見受ける。「人間、歳を重ねてもそうそう成長するものではないし、本質は変わらない」という作劇意図なのだろう。さらに言えば、「大人にならなくていい。子どものままでいい」という「ピーター・パン・シンドローム」に根差したメッセージを発しているようにも見受ける。

 転載が禁じられているので文章は引用できないが、要約すれば「『大人になれ』『丸くなれ』という社会的圧力により、言いたいことも言えない人たちを守りたい」という主旨の発言を、吉田氏は常々SNSでしておられる。

 寅子が、恩師であり、かつて父・直言(岡部たかし)を冤罪から救ってくれた恩人でもある穂高(小林薫)の退任記念祝賀会で花束贈呈を拒否したエピソードが印象深い。このシーンを書くにあたり、吉田氏はプロレスの「花束投げつけ」でも参考にしたのだろうか。あるいは「その人の大切な日をぶち壊しにする」という意味では、大島渚夫妻の結婚30周年パーティーで大島をマイクでボコ殴りにした野坂昭如へのオマージュだろうか。

 寅子は、「女を、私をこんなことにした社会への怒り」という全体的な話を、なぜか穂高個人にぶちまけ、「私は謝りませんよ!」と怒鳴る。あの名(迷)シーンも、「おじさんの言動にものわかりよくならなくていい」という吉田氏の“信念”の表れなのだろう。

 本作ではこうした、作者の「おじさんに対する憎悪」を寅子に代弁させるような作劇が随所に見られる。ところが、「滝行」の手伝いを命じて半裸を見せつけたり、酒席に連れ回したりと、今で言えばセクハラやアルハラに相当する行為を続けていた多岐川(滝藤賢一)には何も言わない寅子。あちこちに噛みつくのに、裁量権のある「お助けおじさん」にだけは歯向かわない。そこだけは「大人」になるというのが、妙に“リアル”だ。

⑤「ふんわりイマジネーション」で書く脚本が画期的

 何についても「ふんわりイマジネーション」で「こんなもんだろ」的に書き上げてしまう大胆さが光る本作。特に、仕事描写の“ファジーさ”には目を見張るものがある。

 まずもって「極上のリーガルエンターテインメント」と謳いながら、法廷劇の見せ場がほとんどない。前半の「弁護士編」で寅子が法廷に立ったのはたったの一度で、OPで纏っているあの法服を着て、裁判官に資料を渡すだけで終了した。現在までに登場した「リーガルエンターテインメント」らしいシーンといえば、寅子が学生時代に見学した、シソンヌ・じろうと長谷川が演じる弁護士が受け持った「着物裁判」だけと言っていいだろう。実に意表をつく作劇だ。

 続く「判事補編」でも、寅子が仕事でどんな成果を上げたのかは具体的に伝わってこなかった。それでも周囲の人間に「佐田は優秀だ」と言わせれば優秀だということになる“力技”の作劇が白眉だ。このドラマは常に「台詞でそう言えばそういうことになる」という「吉田神の律法」に依拠している。つべこべ言わずに飲み込むんだよ。

 寅子が裁判官になった「新潟編」から、ようやく仕事描写が少し増えてきたものの、相変わらず「問題の解決」が法律にからめたものではなく、寅子の仕事や権限の外にある「ヒロインの“おせっかい”」や「ヒロインが周囲で起こること全てを掌握して“許可”を与える」というルールのもと“解決”する。

 本作は、あらゆる問題のソリューションが具体性に乏しく、わりと何でも暴力(言葉や態度の暴力、威圧、支配も含む)で解決することが多い。さらに、「起承転結の『起』がAの問題で始まったのに、Dの問題で結ばれる」という「問題のすり替え」がカジュアルに行われる。「目的の着地点からあさっての方角の砂浜にパラシュートで『ファサッ』と着陸して足をグネる」というような“落着”のしかたが実に多いのだ。

⑥脚本家独自の言語感覚が画期的

 前述の「昭和初期の人間が絶対に使わない、平成・令和語を何のためらいもなくブッ込んでくる」作劇からもわかるが、作者の言語感覚がとても“ふんわり”している。「その時代の、その立場の、その人だからこそ発せられる『言葉』を吟味して書く」という作業を一切省いているように思えてならない。

 戦後の混乱の中、壮絶な体験を重ねながら命からがら焼け跡で暮らした戦災孤児たちを「ねじ曲がった子どもたちを真人間に立ち返らせて」という雑な言葉で括る。梅子(平岩紙)の次男で、戦地で心身共に傷を負って帰還した徹次(堀家一希)を「ひねくれた」の一言で一蹴する。クラスになじめない子のことを、娘の優未(竹澤咲子)が「クラスで嫌われてる子」という身も蓋もない呼び方をしても、寅子がたしなめない。

 「雨垂れ石を穿つ」の意味を曲解していたり、「虎視眈々」の用法を誤っていたりと、「もの書き」であるはずの作者が、言葉を非常に軽く扱っている。

 その一方で、ご自身お気に入りの決め台詞「出涸らし」や「溝を埋める」などは、DJの「ループ」よろしく何度も何度もくり返し“再生”するのが趣深い。

 吉田氏はSNSで、本作に対して懐疑的あるいは批判的な視聴者を十把一絡げにして《穿った見方やムキになる人》と称している。さらに、世の中(≒おじさん)に対しては《クソすぎる》《ボケが》《輩(やから)》などの言葉を用いてなじるなど、容赦ない。

 こうした作者の言語感覚が、「私を怒らせた“愚者”に対しては、投げる言葉を選ばない」という寅子の人物造形に大きく反映されていることがわかる。涼子の台詞を借りて言えば、これは「お言葉のチョイスに難がおありね」ということではなかろうか。

 また吉田氏はSNSで「見えなくさせる」「なかったことにして無視する」という意味で「透明化」という言葉をしきりに使っておられるが、「透明化」の本来の意味は「行政や企業において壁で覆われていた部分を取り払って秘匿性をなくし、可視化する」というもの。つまり「隠していたものを見えるようにする」という意味だ。

 「見えなくさせる」「なかったことにする」という意味で「透明」を使った台詞といえば、『冷たい熱帯魚』で、でんでんが演じる連続殺人および死体損壊・遺棄の犯人による「ボデーを透明にするんだよ、ボデーを」が有名だが、吉田氏はこの映画の熱烈なファンなのだろうか。

 ともあれ、番組も残すところあと7週。このあとも、「演劇的表現」による「その他大勢」の「スイッチオフ」や、全ては寅子を崇めるため、都合のためにコロコロ人格が変わる登場人物たちの「日替わり芝居」など、“見どころ”たっぷりの『虎に翼』の終盤を見届けよう。

By Admin