「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!
目次
・女官は生涯独身を覚悟、老衰で亡くなるまで皇室に尽くす
・美智子さまと女官にかなりの軋轢があったワケ
・美智子さまの女官、皇太子の逆鱗にふれて解雇!
・平成5年、「かなり異なる」雅子さまの女官選びとは?
女官は生涯独身を覚悟、老衰で亡くなるまで皇室に尽くす
――皇后雅子さまの女官として、30年間もお仕えした岡山いちさんが77歳で引退なさったというニュースを目にしました。女官には決まった定年はないのですか?
堀江宏樹氏(以下、堀江) 戦後、昭和天皇による改革で、女官も(侍従職などと同様に)特別職の公務員という扱いになったのですが、65歳とか、明確な定年はありません。
――自分から希望しての退職はできるのですか?
堀江 現代以上に戦前では退職しづらい雰囲気はあったかもしれませんが、大正天皇の「お気に入り」であった山川三千子さんでも「結婚」するという理由で女官を退職しています。
ただ、基本的には天皇皇后両陛下にお目見えする高位の女官たちは、有力者の縁故で若き日に採用試験を受け、一度採用されたら、生涯独身を覚悟で女官になるわけですね。そして高齢や病気を理由に職務がこなせなくなるまで、あるいは老衰で亡くなるまでは現役の女官として皇室に尽くすというのが基本的な働き方だったわけです。
――亡くなるまで働き続けるとは、かなりハードですね。
堀江 とはいえ、明治時代初期に京都から東京に天皇家もお引越しされてからは、何度も天皇・皇后だけでなく、皇族の意向で制度改革が行われているのです。もっとも最近では皇嗣職――つまり秋篠宮家の抱える職員たちが、性別に関係なく、一律で宮務官(きゅうむかん)と呼ばれるようになりました。秋篠宮家は、将来の天皇と目される悠仁親王を抱えておられる皇嗣家ですから、近い将来、日本の宮中から「女官」と呼ばれる女性職員はいなくなることも予想されます。
――それは驚きですね。
堀江 平成の天皇陛下が退位なさって、令和の御代替わりが行われたことを契機に行われた改革だそうです。このように何かあるたびに、女官制度も大きく変化を続けているのですね。
美智子さまと女官にかなりの軋轢があったワケ
堀江 たとえば、昭和天皇は生涯で2回、女官制度を大変革なさったのですが、それ以前の時代、いわゆる上級女官たちは、基本的に男爵家、子爵家といった華族の姫君たちがなっているケースが大半だったわけです。伯爵家以上の家柄の華族、もしくは皇族の姫君たちは、女官ではなく、お妃候補だったわけですね。
実は現在の上皇后陛下こと美智子さまが皇太子妃として皇室に入られた時まで、こうした(旧)華族の姫君たちが女官としてリクルートされ、美智子さまをお支えする体制だったのですけれど、ご存じのように美智子さまは、主に戦後に躍進した実業家一族のご出身ですよね。華族出、皇族出のお妃ではありませんでした。
ですから戦後、数々の特権と身分を失い、財産税によって資産まで奪われた「斜陽族」の旧華族、旧皇族の姫君とは「水と油」で、かなり軋轢があったそうなのです。
――若き日の美智子さまの周辺には、雅子さま、そして愛子さまにとっての岡山いちさんのような親身になって支えてくださる女官はいらっしゃらなかった?
堀江 美智子さまは立派な実業家家系の御出身ですが、これまでのお妃がたのように学習院出身者ではありません。そういう「旧勢力」から見れば、いわゆる「平民」にすぎないんですね。そういう「新勢力」である美智子さまを警戒した学習院大女学部出身者を中心とした同窓会組織「常磐会」のトップ……たとえば松平信子さんや、梨本伊都子さんといった「旧勢力」が人選をして、それを良子皇后が容認する形で、牧野純子(まきの・すみこ)さんという旧華族の女性が選ばれていたとされています。
戦前は「美しすぎる宮妃」的な立ち位置だった梨本伊都子さんは、「平民」出の美智子妃に憤慨し、「日本は終わった」という日記を書いていることが明らかになっている方ですよね。
――そんな、まるでスパイのような扱いじゃないですか。
堀江 牧野純子さんも、一説に「平民」である美智子妃の「召使い」になることに拒絶感があったそうなのですが、自分より身分が高い方々からのご命令とあらば、女官にならざるを得ませんでした。それゆえ、皇太子妃時代の美智子さまの女官たちは、現代のようにご自分を支えてくれるというより、「旧勢力」からのお目付け役として美智子さまの言動を監視し、古い意味での「理想のお妃」とするべくスパルタ教育してくる存在だったのではないか、と思われます。
美智子さまの女官、皇太子の逆鱗にふれて解雇!
――美智子さまが体調を崩された理由がよくわかります……。
堀江 実際に、牧野純子さんは美智子さまに強く当たりすぎて、明仁皇太子(現在の上皇さま)の逆鱗にふれ、解雇されています。
ちなみに秩父宮雍仁妃の勢津子さまも、元・会津藩主の松平容保の子孫で、幕末に「朝敵」認定されてしまったご先祖をお持ちの方で、お父上の恆雄さんのご身分は美智子さまと同じく「平民」でした。戦前は、平民と皇族は結婚できないので、勢津子さまは子爵だった叔父上の養女となって華族の身分を得て、「雍仁親王妃(やすひとしんのうひ)」となられました。
しかし結婚式当日から、おすべらかしの整髪料を落とすためのベンジンを女官から目に注がれ、失明しそうになったり、なかなかハードな経験をなさっていますね(『銀のボンボニエール』)。さすがに故意ではないと信じたいのですが。
――もともと華族の女官からしたら、元・朝敵、さらに平民出のなんちゃって華族のお妃さまは受け入れがたい思いもありそうですね。勢津子さまが『銀のボンボニエール』という回想録でお書きになっていたことを思い出したのですけど、勢津子さまもある寒い日に、革ジャンで公務に出られたら、あとで女官から「お妃にふさわしくない」とネチネチといじめまくられたというお話を書いてらっしゃいました。
堀江 どんなお妃さまも最初は古参の女官たちとの「格闘」を通じ、自分の立ち位置を明確にしていく必要があったのかもしれません。勢津子さまと似たような、あるいはそれ以上の激しい「お妃教育」が、女官たちの手で皇太子妃時代の美智子さまに日夜、浴びせかけられていたのだと想像できますね。
平成5年、「かなり異なる」雅子さまの女官選びとは?
堀江 しかし、そういう女官たちに苦労させられた美智子さまだからこそ、雅子さまが皇太子妃として皇室に入られた平成5年、女官長や女官の任命は従来とはかなり異なる路線での人選がなされたといわれています。女官長は、当時の皇太子殿下(現在の天皇陛下)の学習院時代のフランス語教師で、山岳部の部長でもあった高木進さんの未亡人の高木みどりさんが選ばれました。
――天皇陛下の学生時代からのご趣味のひとつが、登山なのは有名なお話ですよね!
堀江 はい。高木みどりさんは、美智子さまとも25年以上の交流があった方です。高木さんは雅子さまのことも、まるでわが娘のようにお世話なさったそうです。また、雅子さまの外国訪問などにも尽きそっておられました。もう一人の女官が、福祉――とくに適応障害の専門家だった中町美佐子さんという方ですね。雅子さまのカウンセラーとしての役割を期待されていたと考えられるのです。
――それは雅子さまが適応障害と診断される以前の話ですよね?
堀江 そうなのです。雅子さまの異変を早期に察知し、医療につなげることができたのではないでしょうか。しかし逆にいうと、それでも雅子さまの体調が長期間にわたって悪化したままだったということは、皇族のお妃とは本当に難しいお立場でプレッシャーも凄まじいのだろうというしかないのですよね。
ちなみに、先日勇退なさった岡山いちさんが女官になったのは平成6年のことです。同時に女官となった箱島明美さんが、雅子さまの出身校・田園調布雙葉の系列校の四谷雙葉出身者だったり、その後、平成16年に愛子内親王の養育係に任命されたのも田園調布雙葉学園の福迫美樹子さんだったことにくらべると、共通性のない岡山いちさんに大きな注目が集まることはなかったかもしれません。
しかし、特別職の公務員には「守秘義務」がありますし、なにより信頼できるお人柄の方だったのでしょうね。
――ひとくちに「女官」といっても、ここ数十年ほどの間だけでも、採用のねらいが大きく変化しているのには驚きました。
続きは8月24日公開です。