「皇族はスーパースター」と語る歴史エッセイストの堀江宏樹さんに、歴史に眠る破天荒な「皇族」エピソードを教えてもらいます!
目次
・三島由紀夫が公然と語った、上皇后・美智子さまとの「お見合い」
・三島由紀夫の発言が微妙に食い違うワケ
・美智子さまの婚約発表と、三島の結婚は同年だった
・三島由紀夫の母による、思わせぶりな回答とは?
三島由紀夫が公然と語った、上皇后・美智子さまとの「お見合い」
――前回から、昭和の文豪・三島由紀夫の心の恋人は、上皇后・美智子さまだったというお話を聞いています。聖心女子大にこだわる三島の「条件」に合った女性として、卒業生である美智子さまのご連絡先が大学から三島家に伝えられたとのことでした。
堀江宏樹氏(以下、堀江) 三島の希望条件は「才媛(=インテリ女性)」でした。それゆえ「テニス、ピアノを得意とするほか、文章を書くことも好き」という美智子さまの情報だけでも「運命」を感じてしまい、自身がパンフレットにエッセイを寄稿していた歌舞伎座の昼の部の公演に美智子さまをお誘いしたというのです。
こうした「過去」を三島由紀夫が公然と語った最初の記録としては、昭和42年(1967年)、タイの首都・バンコクのエラワン・ホテルのプールサイドのデッキチェアの上での会話があるんですね。
昭和42年といえば、三島の市ヶ谷の自衛隊駐屯地での切腹自害まで残すところ3年ほどです。三島にとっては最晩年といえる時期に、彼はなぜか上機嫌で「ぼくはXX子さん(=美智子さま)と見合いをしたことがあるんです」と切り出したようです。
――なぜ、タイのプールなのでしょうか。開放的な気分になってしゃべっちゃったんですかね。
堀江 三島の最後の作品「豊饒の海」は魂の輪廻転生を取り扱う連作で、その第三篇『暁の寺』では物語の舞台が日本からタイに飛ぶ場面もあるため、取材旅行でしょう。この三島の突然の証言を書き留めた、当時「毎日新聞」バンコク特派員だった徳岡孝夫によると、「まとまらなくても、どちらにも疵(きず)がつかないよう、歌舞伎座で双方とも家族同伴で芝居を見て、食堂で一緒に食事をした。それだけでした」と、三島は朗らかに(!)語りました(徳岡孝夫『五衰の人』文春文庫)。
実際、昭和32年(1957年)に美智子さまが聖心女子大を卒業なさると、正田家は結婚相手を探し始めていたことを認めているんですね。後年、アメリカの雑誌「タイム」が、「さる石鹸会社の御曹司」と美智子さまがお見合いしたが、「御曹司」が美智子さまを気に入らず、うまくいかなかったという「噂」を記事にしたそうです。
しかし、これも正田家が否定した三島とのお見合いのように、「さる石鹸会社の御曹司」のご家族が事実無根だと完全否定しているようです(工藤美代子『皇后の真実』幻冬舎)。
まぁ、当時すでに美智子さまは、皇太子殿下(現在の上皇さま)とお出会いになられていて、殿下が美智子さまのことを真剣にお考えになっている空気が伝わり始めていたのではないか……ともいわれ、関係者としては、たとえお見合いが事実だったところで、それを真実とは認めることはできない空気はあるでしょうね。
三島由紀夫の発言が微妙に食い違うワケ
――関係者の記憶なり、家族に伝わる伝聞情報は必ずしも正確とはいえないということもよく言われますよね。
堀江 美智子さまと見合いしたなどと公言してしまう三島や、その母・倭文重に問題があるということでもあります。
三島は、美智子さまと2回目の約束を取り付けることができなかった。つまり初対面でお断りされた立場なのですが、その後も美智子さまに恋心を残し続けてしまったようです。お見合いの真偽はともかく、三島が自分を「最高の男性」だと信じるには、「最高の女性」である美智子さまとのエピソードが必要だったのかもしれません。
あるいは――、美智子さまは詩を翻訳なさったり、絵本を出版なさったり、折に触れてお詠みになられるお歌もひときわ素晴らしいことからも拝察できるように、文学全般に深いご関心があられます。
おそらく、「お見合い」ではないにせよ、周囲から勧められ、「新進気鋭の作家の三島先生という方と一度、お会いしてみたら?」という形で、三島との対面が実現したのかもしれない……という想像はしてみたくもなりますね。
三島は初対面で恋に落ちたようですが、正田家では歌舞伎座での美智子さまのご様子から「脈なし」というのははっきりとわかったので、正式なお見合いにステップを進めることさえなかったということになりますが……。
ちなみに「楯の会」のメンバーからも「先生、(美智子さまと)見合い、したんですよね」と聞かれると、「正式のものではない。歌舞伎座で偶然隣り合わせになる形だ」(セリフ部分は村上建夫『君たちには分からない』)と答えていますね。
ーータイのプールサイドでの発言とは微妙に食い違っているような……?
堀江 刑事ドラマでは証言が崩れた! となる場面ですけど、解釈次第かも。というのも江戸時代の武家などの「お見合い」って、まさにこういう感じだったんですよね。往来で偶然を装って男女をすれちがわせて、その第一印象でアリか、ナシかを決めさせる……みたいな。昭和でも、正式な「お見合い」の前段階として、こういう出会わせ方をするというのはありうる話だった気もします……。
美智子さまの婚約発表と、三島の結婚は同年だった
――三島は日記に美智子さまへの思いを記していないのでしょうか。
堀江 三島は「豊饒の海」の時でも創作初期から詳細なノートを付けていた作家ですから、もちろんそういう証言も「あった」ようです。三島は昭和33年(1958年)6月、別の女性と結婚しましたが、その時、自分の日記から美智子さまにまつわるページをすべて破って、しかも焼却したといっているのですね。
そうそう、三島の絶筆である『豊饒の海』(新潮社)の第四篇「天人五衰」のラストでは、第一篇「春の雪」から登場し続けた本田繁邦が信じ込んでいた「事実」が、当人から完全否定されるシーンが出てきて、本田だけでなく、読者も度肝を抜かれるのです。正田家からは完全否定されている美智子さまと三島の「お見合い」も、三島とその母親の中だけは疑いようのない「真実」だったのかも……。
――なんだか急にサイコサスペンスっぽくなってきましたね。
堀江 ちなみに美智子さまが、皇太子殿下(現在の上皇さま)からのプロポーズを苦渋の末に受け入れてお二人の婚約が発表されたのも、三島が結婚した同年=昭和33年11月のことでした。
――本当に同じ時代を生きていたことはわかります。
堀江 なお三島本人でさえ、美智子さまとの「出会いは歌舞伎座での一度きり」といっているのですが、「銀座6丁目の割烹『井上』」の「女将・故井上つる江さん」によると「三島さんと美智子さまはウチの二階でお見合いしたんだよ」とのこと(新潮社「週刊新潮」平成21年4月2日号)。
三島由紀夫の母による、思わせぶりな回答とは?
――これは完全に都市伝説化しているからこその、怪情報の増殖でしょうか(笑)。こうやって伝説は補強されていくんですね。
堀江 さらにかつて総理大臣を務めた佐藤栄作の夫人の証言として、三島由紀夫の実母・平岡倭文重が軽井沢で夏を過ごす習慣があるのに、三島だけは滅多に来ない理由は、「いろいろ思い出が多すぎるからでしょう」、という思わせぶりな回答をしていたともいいます(佐藤寛子『佐藤寛子の「宰相夫人秘録」』)。
つまり、上皇さまと美智子さまの思い出の土地として名高い軽井沢は、美智子さまに失恋した三島にとっては「鬼門」だったのでしょうか。ただ、三島だけでなく、その母親までが、自分たちを特別で、神秘的な存在に祭り上げようと演技している様子も感じられてしまいます。
――この母にして、この子あり……。
堀江 実際、美智子さまを慕いつづけたこと「だけ」は確かな三島は、恐れ多くも皇太子殿下を「恋敵」だと考えていたようです。昭和34年(1959年)4月10日、お二人のご成婚当日の三島は、朝まで執筆していたので昼13時に起床。その後は庭で竹刀の素振りをしてから、テレビでパレードを見ることにしたようです。
実はこの時、沿道に集まった11万人もの人々の中から、一人の若い男が「握りこぶし大」の石をお二人が乗っている馬車にぶつけただけでなく、馬車によじ登ろうとするという事件を起こしています。しかしこれを見て、三島はお二人を案じるどころか、異常な興奮を覚えてしまったと告白しているのでした。
――次回につづきます。