『子どもを連れて、逃げました。』(晶文社)で、子どもを連れて夫と別れたシングルマザーの声を集めた西牟田靖が、子どもと会えなくなってしまった母親の声を聞くシリーズ「わが子から引き離された母たち」。
おなかを痛めて産んだわが子と生き別れになる――という目に遭った女性たちがいる。離婚後、親権を得る女性が9割となった現代においてもだ。離婚件数が多くなり、むしろ増えているのかもしれない。わずかな再会のとき、母親たちは何を思うのか? そもそもなぜ別れたのか? わが子と再会できているのか? 何を望みにして生きているのか?
第5回 キャサリン・ヘンダーソンさんの話(前編)
「『あなた犯罪者じゃないのに、なぜ2年間も子どもたちに会えないの?』と、私の国の友人たちから言われます」
そう嘆くのは、高校生の娘と中学生の息子、2人の子どもを持つ、キャサリン・ヘンダーソンさん。彼女の祖国、オーストラリアでは共同親権、共同養育が当たり前、別れた後に子どもに会えなくなる母親は約1%にすぎないという。
https://aifs.gov.au/publications/parenting-arrangements-after-separation
彼女はなぜ、遠い日本の地で、わが子と生き別れになってしまったのか――。前編では、夫との仲に亀裂が入るまでを聞く。
10代の頃から日本人や日本のカルチャーに親しんでいた
――もともと生まれたのは、どちらですか?
1970年、オーストラリアのメルボルン生まれ。結婚して移住するまでの間、基本的にずっとそこに住んでいました。私がティーンエイジャーだった80年代、日本人はすでに珍しい存在ではありませんでした。日本から転校してきたヒロコと友達になったり、弟の交換留学で、和歌山から来た男の子が、うちに数週間ホームステイしたり。また、祖母が日本人に生け花を習っていたりもしました。日本のカルチャーもいろいろ入ってきていて、漫画の『AKIRA』を弟がよく読んでいました。
――その後、日本との付き合いは何かありましたか?
メルボルンで大学に進学して、生理学や生化学を専攻しました。大学では日本語も勉強していて、21歳のとき、ワーキング・ホリデーで日本に7カ月住みました。働いたのは群馬の温泉ホテル。当時は日本語がカタコトでした。
帰国後、大学院に入り、教師になるために教育学や日本の文化について学びました。大学院を出る頃には、日本語をある程度マスターしていて、その頃、駐在員の家族に英会話をレッスンしていました。
――夫となる男性とは、いつ知り合ったんですか?
大学院を卒業した後、公立学校で日本語と理科の教師になりました。97年のことです。彼とは、その年に会いました。友人から、「友達に日本人がいるけどどう?」って言われて、紹介されました。そのとき、私、思ったんです。「日本語の勉強になるし、会ってみようか」って。それで実際に会って話してみたら、すぐに仲良くなり、デートをするようになりました。
――どんな人なんですか?
私より年は2つ下で大阪出身。大学で機械工学を勉強して、いったんは就職しました。しかし、その会社は転勤が1年に3回あり、低いレベルの仕事しかさせてもらえない。そんなひどい会社だったので、辞めたそうです。私と会ったときは、英会話の学校に通って、英語の勉強をしていました。彼が格好いいなって思ったのは、英語が話せなくても自信を持っていたこと。英語が話せないのに、一緒に行ったレストランで、支払い時の店員とのやりとりを私にお任せしなかった。
――彼と結婚するまでは、どのように過ごしていましたか?
知り合った翌年の98年、一緒に住み始めました。彼はオーストラリアに家族がいないので、お付き合いしていた5年間、私の家族が彼のサポートをしていました。
――5年一緒に住んだ後、なぜ結婚したのですか?
1年間、彼はシドニー、私はメルボルンで暮らしました。というのも、彼、シドニーで仕事が決まったんです。そこは日本人の人材を探している会社。面接に行ったら採用になりました。一方、私は国際交流基金の奨学金をもらうことが決まっていて、「2カ月休んで日本に行ってもいい」と職場も言ってくれていた。そんな状況なのに、「奨学金はいらないので辞めます。シドニーで彼と一緒に住みます」って言いにくいじゃないですか?
――それで1年、仕事の都合で別居した後、結婚したんですね?
そうです。彼がシドニーに住み始めた後、「結婚しよう」という話になりました。結婚式は両方の国でしました。2002年7月にオーストラリアのワイナリーで、友達数人とお互いの両親を呼んで、式を挙げました。そして10月には大阪のお寺で結婚式を挙げて、結婚届を出しました。その後、日本で暮らし始めました。彼の会社は東京にも支社があるから、「日本に住みましょう」と私が提案した。すると彼がOKした。
――当然、一緒に日本に移住したんですよね?
そうです。でも、タイミングがバラバラでした。仕事の関係で私だけ一足先に、03年1月に東京へ引っ越しました。仕事はALT(アシスタント・ランゲージ・ティーチャー)。都内の学校に派遣されて英語を教えていました。彼は4月にシドニーから東京へ転勤してきて、一緒に住み始めた。
家事や子育ての分担意識の違い
――お子さんが生まれたのはいつですか?
03年12月のクリスマスに2人でオーストラリアへ行ったときに妊娠したみたい。だから娘は、MADE IN オーストラリア(笑)。娘を産んだのは04年9月で、私は34歳でした。小学3~4年生までは日本で、その後、オーストラリアに戻るというプランを当時は考えていた。そうすれば言葉も文化も両方の国のことを学べるから。でも、その考えは実現しなかった。
――彼は、子育てにどのぐらい関わったんですか?
彼自身、「自分の父親をはじめとする、ほかの日本の男性よりも、ずっと自分はやっていた」と思っていたことでしょう。しかし、私の基準からすると、ずいぶん水準が低い。もちろんイーブンイーブンではなくて、私のほうがたくさんやっていた。
――なぜ、そんなに意識が違うのでしょうか?
彼の母は専業主婦で、父は週に6日働いていた。彼の父と比較したら、確かに彼はやっている。一方、私の母は小学校の教師として働いていて、両親共働き。だから、イーブンでやるのが当たり前だった。
――具体的には、どんな割り振りだったのですか?
保育園の送り迎えは日によって違っていた。彼がやっていたのは食べものの買い物、料理、朝に洗濯物を干す。帰宅後は、自分のシャツにアイロンをかけていた。でも、トイレットペーパー、ハンドソープ、シャンプー、歯磨き粉、洗剤がなくなっても補充はしなかった。子どもの予防接種も、私に任せっぱなしだった。
――2人の関係がギクシャクし始めたのは、いつ頃ですか?
09年に生まれた息子が15年、小学校に入学した。そのぐらいの年齢になれば、いったん子育てが落ち着いて、2人で過ごせる時間が取れると思っていた。でも彼の考え方は違っていて、「会社員を続けながら、自分の会社を作りたい」という考えだった。
2人とも働いているし、東京には誰も親戚がいない。 それに子どもが2人もいる。だから、彼が新しくビジネスを始める余裕はないと思っていた。だから私は彼に条件を出した。「受け持っている生徒たちの試験が毎年11月にある。始めるなら、せめて試験が終わってからにしてください。会社を作るための準備で人に会いに行ったりして夜遅くなるのなら、あらかじめ説明してください」と。
――彼は条件を守りましたか?
いいえ。私の生徒たちの試験が行われる11月より2カ月も早い9月に、彼は会社を始めてしまいました。
――彼は約束を破ったんですね。
しかも、年明けの1月には、夜中の2時になっても帰ってこないのが通常になった。そうしたことが続いて、私は不安で寝られなくなった。
――2人の子どもは、まだ小さいですものね。
そうなんです。それに私、日本人じゃないから、地震に慣れていない。11年の東日本大震災の揺れは、本当に怖かった。そのとき、あの地震から4年がたっていたけど、「また揺れたらどうしよう」って、ずっと思ってた。だから余計に不安が大きくなった。
――彼に注意はしたんですか?
1月になって言いました。「出かけるときに、どこに行っているか教えてください」と。すると彼、従ってくれたり、聞き入れてくれるんじゃなくて、むしろ怒って言いました。「キャサリンは、オレのことをコントロールしようとしている」と。そして、その後、彼は私のOKがないまま、ずっと帰ってこなくなった。だから私、不安で寝られなくなってしまったし、仕事にも出られなくなった。なのに、彼は私を無視した。
――彼が経営していたのは、何の会社なんですか?
ワインの輸入販売、コンピューター関係の相談とか。業務内容はバラバラ。収益は上がっていなかった。確定申告は毎年行っていましたけどね。
――なぜそんなに、彼は新しいビジネスにこだわったんでしょうね?
彼はそのときミッドライフクライシス(中年の危機)だったのかも。今までの人生は「自分の思い通りにいかなかった」と思い込んでしまった。だから、突然、新しいことを始めた。それが新しいビジネスだった――。私はそう解釈した。だとすれば、しばらく静かに待ってあげたら落ち着いていくと思った。
――彼は落ち着いた?
いいえ。ますますひどくなった。例えば、一家で車でお出かけしたとき、靴を履かずに靴下のまま運転をしたり、それまで吸っていなかったタバコを41歳になってから吸い始めたりもした。ヘンでしょ?
――確かにヘンですね。それで、その後、関係はどうなったんですか?
2年間、ずっと関係はよくなかった。彼は毎月、1週間大阪に出張していて、私や子どもたちに秘密で、若い女性と交際しているようでした。LINEのメッセージに証拠が残っていた。
――キャサリンさんの体調はどうでしたか?
どんどん悪くなっていった。不眠症になってしまって、学校に働きに行っても保健室で寝かされることが普通になった。
――お子さんとの関係はどうだったんですか?
私たちの親子関係は良いほうだったと思います。だからもし、平等に離婚の調停をしていたら、私が親権者となる可能性が高かった。日本人ではないけども日本語が話せる、学校の教師。日本に長く住んでいる。悪くない母親。すると、彼が子どもたちの親権を得るためには、連れ去りという選択しかなかった。
――彼が離婚したいと言いだした経緯を話してもらえますか?
15年、16年と2人の関係はよくなかったけど、17年になると少し関係が落ち着いてきていた。ミッドライフクライシスを乗り越えたんじゃないか、という手応えが、そのとき私にはありました。だから私、彼に提案しました。「出張から帰ってきたら、10月の結婚記念日を一緒にお祝いしましょう」と。彼が承諾したので、レストランのコース料理を予約しました。彼の出張の都合で数日遅れの日に。
――それは、どんなお店ですか?
荻窪のスペイン料理店です。当日、子どもを残して2人きりで、バスで行きました。そのとき、私、結婚15周年を記念した贈り物を用意していたんですよ。
――それは素敵ですね。贈り物は何だったんですか?
ギフトセットの箱に入った、クリスタルのワイングラスです。ペアで1万円もする高級なグラス。
――2人でごちそうを食べて、記念日を祝ったのですね。それでプレゼントは渡したんですか?
いいえ。それどころではなくなりました。というのも食事の途中、突然、「離婚したい」と切り出されたんです。私はショックを受けて、固まりました。私が黙っていると、彼は「帰ろう」って言って、席を立ちました。
――コース料理なら、まだ出てきていない料理もあるでしょう?
そうなんです。私たちの修羅場を見て、レストランのスタッフがパニックになりました。すごく困っていて、「メインディッシュのプレートがこれからです。どうしましょう?」と相談されました。すると、彼はさっさと会計を済ませて、店を出ていきました。
――ひどすぎますね。無理やり、関係を壊そうとしているフシすら感じます。それで、その後の家庭生活はどうなりましたか?
家庭内別居です。それまでは、2人でダブルベッドに寝ていたけど、レストランで「離婚したい」と言われてから、彼は子ども部屋で布団で寝ていた。その後の11月と12月、本当につらかった。
――その後は?
年が明けた後、子どもたちを連れて、オーストラリアへ戻りました。
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これは国をまたいだ別居なのか、それとも一時的な帰国なのか……。
(後編へつづく)